1−6 そして、現在

1−6−1 イスラエルとエジプト平和条約

 第4次中東戦争の停戦に大きな役割を担ったアメリカ国務長官のキッシンジャーは、続いてエジプトとイスラエルの間で平和条約を締結させようと、両国を往復するシャトル外交を展開した。その過程でキッシンジャーは特にエジプトのサダト大統領の信頼を得ることが出来、サダトに対して、スエズ運河東岸にエジプト軍の兵力を最低限にというイスラエルの条件を受けいれさせる素地をつくることができた。
 1977年11月19日、サダトはイスラエルの国会において演説し、両国の平和条約締結を訴えた。エジプトが平和条約締結へ外交方針を転換した理由としてはふたつあった。ひとつが30年にわたるイスラエルとの紛争による経済的な疲労、そしてふたつめにはイスラエルによる核兵器の保有という軍事的なアンバランスがあった。経済的にも軍事的にも、これ以上の戦争継続はエジプトにとって不利益が多いとサダトは判断したのだった。
 エジプト大統領サダトと、イスラエル首相ベギンは、1978年9月にアメリカのキャンプデービットで平和条約に関する話し合いを行い、翌1979年にはホワイトハウスで平和条約が結ばれた。終わりの見えない戦争と停戦に、初めての限定的な平和が訪れたのだった。しかしその結果はパレスチナに対する裏切りと取られ、アラブに対するエジプトの関係は悪化した。サダトは孤立し、独裁者としての権力をより一層振るったが、1981年10月6日、第4次中東戦争「戦勝」パレードのさなかに殺害されたのだった。

1−6−2 レバノン侵攻(イスラエル作戦名『ガリラヤのための平和作戦』)

 エジプトとの平和条約により、イスラエルはその少ない戦略資源をより柔軟に使用できるようになった。四周を敵に囲まれていた状況から、とりあえず西方からの侵略に関しては殆ど考慮する必要がなくなったのだ。
 一方アラブとしては、とりわけその住処を奪われ難民となったパレスチナ人たちにとっては、引き続きイスラエルの存在を許容することは出来なかった。しかしながら、自らがイスラエル軍と戦うだけの戦力を持たず、また周辺諸国も再び戦争を起こそうという状況にもなかった。
 イスラエルの北に位置するレバノンではイスラム教徒とキリスト教徒の間で内戦が起こっていた。2つの宗教が半々の人口を占めるレバノンは、ヨーロッパとの繋がりを重視するキリスト教徒とパレスチナ人に同情的なイスラム教徒が争いを始め、イスラム側にPLOが、キリスト教側にシリアがついての戦いが続いた。1976年には停戦合意が成立したが、シリアはイスラエルとPLOの間に挟まれる状態となる南部への駐留を拒否したために、同地はパレスチナゲリラにとっての聖域、通称ファタハランドとなった。ここにでテロリスト訓練キャンプの設置やカチューシャ砲によるイスラエルへの越境射撃が行われた。同じくアメリカとイスラエルを敵とする共産主義テロリストたちもレバノンで訓練を受け、そして共産主義諸国も武器の援助などを始めた。特に大規模なテロとしては1972年5月の日本赤軍によるテルアビブでの銃乱射(57名負傷)や、1976年6月のエールフランス機ハイジャック(着陸していたウガンダ・エンテベ空港にイスラエル軍が強襲し4名の死者を出し奪還)などがあった。
 イランでは1979年1月にイスラム革命が起こり、イスラム原理主義を標榜するホメイニはアメリカ・イスラエルとの国交を断絶し、イスラム社会への「イスラム化」(イスラム法に基づいた政治と宗教の一体化)を呼びかけた。国内に同じくスンニ派を抱えるイラクは革命の波及を恐れ、フセイン大統領はイランとの戦争を選択した。1980年9月から1988年8月まで続いた「イラン・イラク戦争」の始まりであった。イラクとの戦争を予期していなかったイランは、これまでに購入していたアメリカ製兵器の供給源としてイスラエルを頼りにせねばならなかったので、両国の国交は再開された。またイスラエルは爆装した8機のF−16を6機のF−15が護衛してイラクの原子炉を破壊し、軍事面での直接的な協力も行った(『バビロン作戦』)。

1−6−3 冷戦後(湾岸戦争後の中東)

 ソ連に登場したゴルバチョフはペレストロイカ(構造改革)を行おうとしたが、それは周囲の東側諸国体勢を、引いては共産主義国家であったソ連自体の崩壊へとつながることとなった。その冷戦終了期に起こった湾岸戦争は、イスラエルとパレスチナにも影響を及ぼしたのだった。
まずはイスラエル、イラクによるクウェート侵攻はイスラエルにとり利益をもたらした。イラクは対イラク連合軍へ揺さぶりをかけるためにイスラエルへ39発の弾道ミサイルを発射した。もしイスラエルがイラクへ報復しようとしたなら、周辺諸国はイスラエルと同じ陣営に立ってアメリカと対イラクの共同作戦を取ることは出来ない。そこを自制したことでアメリカから見返りを要求できたのだ。2名の死者と230名の負傷者の代償は、アメリカによる10億ドル近い軍事援助であった。
 パレスチナ側にとっては不利益をもたらした。イラクのフセイン大統領は、クウェート併合をイスラエルへのパレスチナ占領と同じでありリンクして考えるべき問題だとした。PLOのアラファト議長はバクダットでフセインと協議をしたが、これはイラクよりの行動と取られることなり、アラブ諸国を含めた国際社会に対する信頼を失った。各国からの援助やクウェートに出稼ぎへ出ているパレスチナ人からの「税収」も減少し、弱体化した。
 湾岸戦争で連合軍によりクウェートは開放された。その勝利はイスラエルにとって以上に、アメリカ政府にとっての利益であった。9割以上の支持率を得たブッシュ大統領は、イスラエル・ユダヤロビーの圧力にも屈せずに中東問題の解決を図ろうとしたのだった。大統領はイスラエルに対して、債務保証供与の延期を圧力として和平交渉の席へつくように働きかけた。そうして1991年10月にスペインのマドリードで開催された和平会議であったが、パレスチナ側の代表からPLOが除外されていたために実質的な交渉は進展しなかった。
 イスラエルで政権交代が起こり、左派労働党のラビン首相はPLOを和平交渉の相手先とした。そうしてノルウェーのホルスト外相を経由した交渉は、1993年9月13日に「オスロ宣言」として実ったのだった。イスラエルはパレスチナの暫定自治を認め、パレスチナはイスラエルの存在を認めたのだった。
 しかしながら共存を認めない存在はどの社会にもあり、1995年11月4日、ラビン首相はユダヤ教徒によって暗殺された。またPLOの統制下に無いイスラム原理主義団体、「ハマス」によるテロ活動はユダヤ社会の右傾化を強めた。右翼のネタニヤフ、左翼穏健派のバラクを経て2001年1月にイスラエル首相となったのはタカ派のアリエル・シャロンであった。彼は第1次中東戦争から従軍していた軍人で、政治家となってもその強気な方向性は変わらず、和平交渉は暗礁に乗り上げてしまった。

1−6−4 『まとめ』のようなもの

 2001年11月9日、アメリカ同時多発テロが発生し多数の死傷者を出した。これはアメリカにとってパール・ハーバー以来の本土への攻撃であり、宣戦布告無き戦争であった。アルカイダによる犯行は、アメリカにテロへの戦いへ駆り立てるきっかけを作り、世界をテロリストと戦う国と支援する国というたった2種類へと単純化させてしまった。アフガニスタンを始め世界各地でテロとの戦争を始めたアメリカと同調し、シャロンは陸軍を使ってアラファトを議長府に幽閉した。
 2002年12月現在、アラファトは幽閉を解かれているが、テロは続き、パレスチナの地に平和は訪れていない。多くの血を吸い続けてきた3つの宗教の聖地は、これからも紛争の火種を抱え続けるのではないだろうか。

参考文献
『中東戦争全史』   山崎雅弘     学習研究社   2001年
『中東戦争全史』   歴史群像シリーズ 学習研究社   2002年

参考HP
田中宇の国際ニュース解説(政治評論家) http://tanakanews.com/index.html

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