イスラエルはユダヤ人国家である。その起源は一帯いつ頃の、どの時代からなのであろうか。
旧約聖書によれば紀元前11世紀、イスラエルはソロモン王の治世下に隆盛を極めていた。しかし彼の死亡した紀元922年、イスラエルは北部の「イスラエル」と南部の「ユダ」に分裂、国力の衰えとともに周辺諸国からの侵入を防ぎきれずに滅亡した。紀元後70年、ユダヤ人による反乱がローマ総督により鎮圧されたのちに、彼らはパレスチナを離れていった。以後2000年に渡って続くことになる流浪の始まりであった。このときの離脱をさして、「ディアスポラ」と呼ぶ。
紀元後のパレスチナ(ペリシテ人の土地)は、ローマ帝国の配下にあった。同帝国は4世紀初め、皇帝コンスタンティヌス1世のもとキリスト教が公認されるに伴い、中心地であるエルサレムはキリスト教の聖地とされた。
そして7世紀、次なる勢力がエルサレムの支配者となった。イスラム教徒(ムスリム)たちである。彼らは預言者ムハンマドの夢カ――大天使ガブリエルに導かれてエルサレムの地に着地した――から、イスラエルの丘の上にある「聖なる丘」を聖地とし、「岩のドーム」を建設した。イスラエルは、メッカとメディナにつぐイスラム教3番目の聖地となったのである。
中世、文化的な優位は西洋ではなくイスラム圏にあった。12世紀の十字軍による中断を除き、イスラエルはムスリムの勢力圏下にあった。その支配者がアラブ人から16世紀にトルコへ移ってからは、多数派のアラブ人イスラム教徒に混じって、少数のキリスト教徒及びユダヤ教徒は、イスラエルにおける生存権を認められ、異なる宗教を信じる民が共存していたのである。
近代に移る。19世紀後半、ヨーロッパに於いてシオニズム運動が誕生した。ユダヤ人の約束の土地、シオンの丘(=イスラエル)へ帰国し、そこにユダヤ人国家を建国しようという運動であった。これは、テオドール・ヘルツにより著された『ユダヤ人国家――ユダヤ人問題の現代的解決の試み』という書物によってより一層現実味をおびたものとなっていった。また1897年8月、スイスのバーゼルに於いて「第1回シオニスト会議」が開催された。これらの動きはユダヤ人たちの行動を後押しすることとなる。ヨーロッパ、特にロシア及び東欧では、君主が民衆の不満をそらす為にユダヤ人たちへの迫害(ポグロム)を扇動さえしていたので、ユダヤ人による国家建設は現実的な問題となっていた。
当時のパレスチナは、カイロなど周辺大都市に住む大地主たちが当地のアラブ人を小作人としていた。シオニズム運動の高揚にともない、ユダヤ人は地主からその土地を買い上げて入植をし始めた。これは耕作地を奪われたアラブ人たちにとって死活問題となっていった。
やがて1914年、ヨーロッパでは列強各国を巻き込んだ大規模な戦争が始まった。第一時世界大戦の始まりである。当時最も強力であった大英帝国は、産業革命以降の、石炭から石油への燃料シフトが始まっていた。中東は多くの油田を抱える要地であり、その地域の安定化及び自らの影響下に置くことは国益上の要求といえた。枢軸国側に立って参戦したオスマン・トルコ帝国の軍隊を駆逐し、中東における自らの支配権を確立する目的で、イギリスは同時に3つの約束をすることになった。これが4次にわたる中東戦争への直接的な原因と言える。それぞれを以下にまとめる。
「サイクス・ピコ協定」 :イギリスとフランス両国による秘密協定。
戦後の中東を英仏で分割統治。(イスラエルは国連統治。)
「フセイン=マクマホン書簡」:イギリスとアラブ人指導者間の書簡。
戦後のアラブ人による独立国家設立を容認。
「バルフォア宣言」 :英外相によるシオニスト連合会会長への書簡。
パレスチナにおけるユダヤ人国家設立を容認。
当然のことながら、三者は鼎立しえない。第一時世界大戦の終了後に開催された1922年の国際連盟理事会の決定により、イギリスはパレスチナの委任統治を開始した。列強各国は、大戦前と同様に植民地経営を行おうとしたのだが、各地で広がる国民意識の高揚と民族運動の激化により、これまで通りとは行かなかった。なんらかの成果をあげて中東のアラブ人たちを納得させなければならなかったのだ。その結果生まれたのが、イラク王国及びトランスヨルダン王国である。ユダヤ人たちによる独立国家は含まれていないが、パレスチナに対する入植は制限つきながら認められていた。ただ、パレスチナに住むアラブ人は考慮されていなかったのである。
戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)は小康状態を保っていたパレスチナであったが、ヨーロッパに再び暗雲が垂れ込めるにしたがい、紛争の火種が飛び移ってきた。ナチスによるユダヤ人迫害である。ナチスが政権を握った1933年から41年にユダヤ人の国外移住を禁止するまでの間に、ドイツから約30万人のユダヤ人が亡命した。そして彼らは約束の土地、パレスチナを目指したのである。パレスチナにおけるユダヤ人の急増は、そこに住んでいたアラブ人たちにとって自らの生存を脅かす存在となってゆき、ユダヤ人移民への武力闘争が始まった。委任統治者たるイギリスは産油国としての中東を重視し、1939年に「マクドナルド白書」(アラブ人によるパレスチナ国家設立の約束)を発表、アラブ人への態度を軟化させた。これは同時にイギリスがユダヤ人を見捨てたようにも映り、彼らが自らの武装化と武力闘争の開始のきっかけとなったのであった。
マクドナルド白書を見たユダヤ人は、活動の主軸をイギリスからアメリカへと移していった。後に初代イスラエル首相となるペングリオンは、シオニズム運動支援要請のために向かったアメリカで手厚い歓迎を受けた。後に「ビルトモア綱領」と呼ばれる声明を発表し、パレスチナにおけるユダヤ人国家建設を希求した。ペングリオンはアメリカで支援者の資金援助により工作機械を購入し、パレスチナにおける武器製造に供された。
イギリスでは、ロシア出身のユダヤ人科学者であるワイツマンの提案によりパレスチナ在住ユダヤ人旅団の設立が認められ、イタリア半島で戦線に投入された。一方パレスチナでは1920年、「ハガナー(防衛者)」と呼称する統一的な軍隊組織が編成され始めていた。1941年、ハガナーの常備軍として「パルマッハ」6個中隊を編成し、イギリス軍に協力した。イギリスの支配を嫌ったグループは、反イギリスの武装闘争を開始した。「イグルン」及び「シュテルン」等に代表されるテロ組織は第2次世界大戦の終結移行も活動を続けた。反イギリス活動が民衆の支持を得るにつれ、ハガナーもその影響から逃れられなかった。パレスチナの地では、アラブとユダヤ、そしてイギリスを巻き込んだ泥沼の紛争状態へと陥っていったのである。
1947年の11月、国連によりパレスチナ分割の決議、第181号が採択された。パレスチナをアラブ領・ユダヤ領と、国連管理のエルサレムと分割するような内容であった。アラブ人はユダヤ人に有利な土地配分だとして反発した。ユダヤ人はエルサレムの国連による統治に反発した。両者はこの決議を承諾する事がなく、イギリスは決議よりも早い1948年5月15日を、パレスチナからの撤退期限とした。
そして1945年11月14日の夜、テルアビブに於いてユダヤ国民評議会は「イスラエル国」の樹立を宣言、周辺諸国は建国を認めず直ちに侵攻し、第1時中東戦争がはじまった。
参考文献『中東戦争全史』 山崎雅弘 学習研究社 2001年