1−2 第1次中東戦争

1−2−1 承前

 後に第1時中東戦争と呼ばれる戦争は1948年から49年にかけて行われた。その戦争勃発前のパレスチナについて概観してみよう。

 勢力は大きく4つあった。ユダヤ人とパレスチナ人(アラブ人)、11月に撤退するイギリス軍、そして周辺のアラブ諸国。ユダヤ人はイスラエル国の独立宣言以前からの武装組織を動員、総兵力7万5千名による9個旅団を編成していた。しかしながらこの旅団には、戦車、野砲はおろか重機関銃すら装備されていなかった。あるのはライフルにサブマシンガン、軽・中迫撃砲が少々。撤退するイギリス軍から一両ずつ戦車を盗んだり、外国からの余剰品買い上げ(第2次世界大戦が終了してさほど時間がたっていなかった。)などにより、戦争開始後逐次増強し、かろうじて戦争のできる近代兵器を手にする事が出来たのである。

 パレスチナ人――人種的にはアラブ人であるが――もともとパレスチナに住んでいたのだが、後から入ってきたユダヤ人により追い出されてしまった。その数は70万人とも100万人とも言われている。何処に難民として流出したのかといえば周辺イスラム諸国へであり、それは各国に対するイスラエルへの怒りを増幅させることとなった。なかでもイスラエルが48年4月に「デイル・ヤーシン事件」により200人以上の民間人を虐殺したことで、難民となるパレスチナ人が急増した。しかし彼らには統一した政治組織もなく、政治的な発言力はなかった。後に、意思表示の手段としてテロを用いるのは或る意味必然だったのかもしれない。

 イギリス軍は何をしていたのか、彼らは何もしていなかったのである。撤退の期限が決まっている以上、余計な問題には関わらないようになっていた。ユダヤ人とパレスチナ人の闘争も、事態を沈静化するのではなく収拾してからの後始末が主な仕事であった。既に大英帝国は植民地に対する統治者としての意思も能力も欠けていたのだった。

 周辺アラブ諸国はアラブ同盟(エジプト、ヨルダン、レバノン、シリア、サウジアラビア、イラク)を結成していた。その軍事的な主力は英国人グラブ中将率いるアラブ軍団で、兵力1万を越す諸兵科連合の近代的な部隊であった。砲兵、戦車により支援されたベトウィンを中心とする戦力は、近代兵器を持たないイスラエルとは雲泥の差と言えた。諸国の国王たちも、自らの勝利を確信していた。

 ただ問題があったとすれば人的資源、特に近代戦を戦ったことのある将校の数で、これはイスラエル側が圧倒的な優位に立っていた。彼らは第2次世界大戦に従軍し、イギリスやアメリカ、ソビエト軍の兵士としてドイツとの戦争を戦い抜いてきた。この差は後々響いてくることとなった。戦争になった場合の支持基盤も、アラブ諸国は各国が国王自らの利害を重視し、協力及び多国間の協調がとりにくい状況にあった。自らの国家存亡を賭け挙国一致で戦うイスラエルに比べ、銃後の安定も不十分であったのだ。

1−2−2 独立宣言と戦争の開始

 1948年5月14日、イスラエルは独立宣言を行った。これに対してはアメリカ、ソ連およびその衛星国が承認した。一方ユダヤ人国家の建国を認めない周辺アラブ諸国は、パレスチナに侵攻した。第1時中東戦争の始まりである。

 開戦当初よりイスラエルは劣勢に立たされることとなった。首都であるエルサレムの旧市街が、グラブ中将以下のアラブ軍団により包囲され、守備隊は抵抗したものの兵員損耗及び弾薬の枯渇により降伏した。また交通の要所であり、テルアビブとイスラエルを結ぶラトルン峠もアラブ軍団により占領された。これは後方連絡線の途絶を意味していた。今だ健在のエルサレム新市街守備兵力が干上がらない為にはラトルン峠の奪回が必要と思われた。後に発揮された奪回作戦は失敗したが、後に新たな補給路(ビルマ・ルート)を構築することにより何とか継戦能力は維持することが出来た。

 エジプトは戦車装備の兵力1万を持ってイスラエルへ攻撃を開始、戦車、対戦車砲などの有力な対戦車火器を持たないイスラエル軍を蹂躙した。順調に行くかと思われたその進軍であるが、イスラエルの航空兵力により止まってしまった。航空兵力など無いと思われていた建国間もないイスラエルによる航空攻撃はエジプト兵の士気をくじき、戦線は停滞した。

 戦争は続いていたが、消耗戦は資源の少ないイスラエルにとって不利であった。よって、5月29日の国連決議による停戦はありがたいものであった。約1ヶ月間の休戦期間中、イスラエルは兵力の再編を図り、アラブ諸国は利害の不一致が浮き彫りとなっていった。

 休戦期間中の両陣営は、戦争に対する体制再建において対照的であった。イスラエルは各種武装勢力を統合しイスラエル国防軍(IDF)を設立。一方のアラブ陣営は各国の足並みの乱れが際立ってきた。特にパレスチナ併合を目指すヨルダンと、それに反対する各国の間の溝が埋めがたいものとなっていった。

 休戦解除と同時にイスラエルが発動した「ダニー作戦」は、中古のフランス及びイギリス製の戦車を装備した4個旅団により行われた。整備状態の悪かった中古戦車は次々と故障し、戦闘に寄与することが出来なかった。しかしながらダヤン大佐以下の第89機械化コマンド大隊の活躍などもあり、目標であったロッドとラムラの奪取に成功する。これにより首都テルアビブの安全が達成されたのだった。

 1948年7月、国連により再び停戦決議が採択された。イスラエル及びアラブ連盟はこの決議を受諾したが、散発的な衝突は収まらずなし崩し的に戦争は再開された。同年10月、イスラエル国防軍(IDF)は「ヨアブ作戦」を発動した。3コ旅団と2コ大隊を用い、エジプト軍の撃滅を企図していた。戦闘によりエジプト軍は劣勢に立たされた。さらに発動された「ホレブ作戦」により、戦況は明らかにイスラエル側に有利であった。エジプト軍は各個に撃破され、IDFはエジプト領内へなだれ込んでいった。

 明けて1949年1月1日、イスラエルはイギリスからの連絡を受けた。それは、もしIDFがエジプト領から撤退しないのであれば、イギリスがエジプト軍を支援するというものであった。イスラエルはこれにより停戦を決意する。すでに国連決議以上の土地を支配していたし、大国の介入をしのげるほどの国力もなかったのだ。アラブ側も当初の熱狂は覚め、これまでの敗戦による厭戦ムードが支配していた。

 イスラエルはアラブ同盟6カ国(イラクは協定なしで撤収)とそれぞれと停戦交渉をし、協定を結んだ。その結果、ユダヤ教徒にとり神聖な嘆きの壁(イスラエル旧市街にある)はヨルダン支配地域であるが、ユダヤ人は自由に出入りできるとされた。しかしながらヨルダンは停戦後に彼らを旧市街には入れなかった。これはイスラエル国民のヨルダンへの憎悪を植え付けることとなった。

 以上により、第1次中東戦争は幕を閉じた。しかしながらこれは、4次にわたる中東戦争の始まりに過ぎなかった。次の戦争がはじまるまでの7年間は、あくまで休戦期間でしかなかった。エルサレムを中心とするパレスチナ地域におけるユダヤ人、アラブ人、そしてパレスチナ人の共存は達成されていなかった。そして1956年に勃発した第2次中東戦争には、彼ら以外のプレーヤーが登場したのだった。イギリス、フランス、そしてソ連であった。

参考文献『中東戦争全史』 山崎雅弘 学習研究社 2001年

1−3 第2次中東戦争 に続く

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