1−3−1 戦間期
第1次中東戦争は終わった。しかしそれは新たな戦いまでの休戦期間に過ぎなかった。第1次世界大戦には第2次世界大戦という続きがあったように、中東におけるイスラエル独立戦争は、次なる戦争を引き起こすものであったのだ。終わった戦争による被害は巨大であったが、そこで提起された問題は何一つ解決せずに積み残されていた。イスラエルという国家の誕生は、パレスチナ難民による周辺アラブ諸国の連合だけではなく、従軍した将兵たちにとっては自国の体制に対する不満が蓄積し、中東各国のナショナリズムを引き起こすきっかけともなっていった。
第2次中東戦争はエジプトに対するイスラエルと英仏連合軍による侵攻という形であらわれたのであるが、どのような原因によって新たな戦争が起こったのか、その前提となる背景について述べてみよう。
第1次中東戦争当時(1948年)のエジプトは独立国家で、国王が支配者であった。しかしながら総人口の0,5%が国民所得の50%を手にするような、社会格差の大変激しい状態であった。さらには独立国家と言いながらも、行政の主導権は駐在イギリス大使が握っていた。そのような中、1952年7月23日にナセル中佐(彼は第1次中東戦争に従軍し、補給体制の貧弱さと、支給兵器の欠陥ぶりを実感していた。)率いる自由将校団により無血クーデターが起こった。翌53年6月に王制を廃止、ネギブ将軍が首相兼臨時大統領となり、ナセルは副首相兼内相となった。しかし翌年、旧支配者層との関係を強めたネギブはナセルを暗殺しようとするが失敗、ナセルがエジプト共和国初代大統領となったのだった。
大統領となったナセルは、スエズ運河に8万の兵を駐留している旧宗主国イギリスの影響力を殺ぎ落とすことに取り掛かった。またイスラエルへの対抗上兵力増強を図ろうとして西側諸国に働きかけた武器輸出への働きかけが断られたことが、ナセルをソ連へ接近させた。ソ連製兵器の供与を見た西側はアスワンハイダムへの融資停止による圧力をかけたが、1956年7月26日、エジプトはスエズ運河の国有化という対抗措置に出た。今まで英仏が株式を保有する会社に渡っていた利権を、エジプトが引き継ごうというものであった。
それに対し英仏は激怒した。当時において、スエズ運河は航海から地中海へと向かう西欧向け石油の7割が通過していたのだ。両国はスエズ運河の国際管理を目指していたので、ナセルの決定はまったく受けいれることができなかった。外交的手段による解決ができなければ、軍事的手段を用いるしかない、戦争である。
ここで外交の論理が顔を出す。「敵の敵は味方」の論理である。イスラエルはアカバ湾にエイラート港を持っていた。ここからイスラエルはインド洋へ出ることができたのだが、ナセルはチラン海峡の封鎖を発表しその出口をふさいでしまったのだ。スエズ運河の支配権を取り戻したいイギリスとフランス、チラン海峡の封鎖を解除したいイスラエル、両者の利益は一致し、戦争への準備が始められた。そしてシナリオが出来上がった。イスラエルがシナイ半島に侵攻し、エジプトと交戦状態に入る。そこでスエズ運河の安全確保を名目として英仏両国がスエズ運河を占領する。その後に国連決議であれなんであれ、スエズ運河の実効支配とチラン海峡の自由航行を確保するのだ。
英仏連合軍は10万に上る兵力を用意し、イスラエルはフランスから76ミリ長砲身装備のAMX−13などを手にし機甲戦力を増強させていった。イスラエルは国家規模が小さいため大規模な現役兵力を有することができず、12個あった旅団のうち9個を予備役としていたが、この戦争のために10個旅団を準備した。攻撃開始は56年10月29日、第2次中東戦争がはじまった。またの名をスエズ動乱という。
1−3−2 戦争の経過
イスラエルからエジプトにいたるシナイ半島には4つのルートがあった。中でも国境の要衝であるウムカテフには第38師団(第4歩兵旅団、第10歩兵旅団、第7機甲旅団、第37機械化旅団)が、ガザ回廊の付け根にあったラファ陣地には第77師団(第1ゴラニ旅団、第11歩兵旅団、第27機甲旅団)が投入され、ミトラ街道を制するミトラ峠(シナイ半島の結節点)では第202空挺旅団が攻略に当たった。
ウムカテフの攻撃には一個大隊分の戦車しか持たない第37機械化旅団が支援兵力として当てられた。戦局がイスラエル優位となり孤立する中でも同地はエジプト軍が保持していた。その激戦は、旅団長サムエル・ゴリンダ大佐の戦死という状況からも見て取ることができる。11月2日にエジプト軍が放棄するまで、ウムカテフの戦闘は続いた。
ラファ陣地はエジプト軍5個大隊が多数の円陣方式の陣地を縦深に配置し、地雷原に守られた強固な陣地であった。第27機甲旅団を擁する第77師団は、海空からの準備攻撃(海から仏戦艦「ジョルジュ・レイグ」の艦砲射撃、空からはイスラエルK空軍のB-17による爆撃)の後、歩兵旅団による突入を開始した。戦闘は夜間に行われたが、エジプト軍の果敢な反撃によりイスラエル軍の攻撃は頓挫しかけた。しかしながら工兵部隊が大損害出しながらも地雷原を開拓し、夜明けとともに第27機甲旅団がそこからなだれ込むことで、激戦の末に陣地を占領することができた。
第202空挺旅団はガザ地区のパレスチナ人ゲリラ報復を担任していた第101特殊コマンドが基幹となって編成された部隊で、後に首相となったアリエル・シャロン大佐が指揮を取っていた。旅団に与えられた任務は同地の封鎖であり、積極的な攻勢任務は含まれていなかった。ところがシャロンは独断で周囲のエジプト軍陣地を攻撃し多数の被害を被った。これは参謀総長モシェ・ダヤン(隻眼でコマンド出身)を激怒させたが、任務は達成されたのだった。
事前の打ち合わせ通り、イギリスとフランスは、エジプトに両軍のスエズ運河駐留を求めたがナセルは拒絶した。10月31日にエジプト各地への空爆を開始した両国に対し、ナセルはスエズ運河へ船舶を沈め、運河閉鎖を命じることで応えた。英仏は運河への上陸を開始しようとしたが、問題が起こった。アメリカの反対である。
アメリカ大統領アイゼンハワーは、同時期に起こっていたハンガリー動乱を注視していた。民衆デモは政府の手におえなくなりソ連軍による武力弾圧が行われていた。世界の目がスエズに向けられていた時に、ソビエトは自国の権益を軍隊で守った。英仏も同じ手段で自国の権益を守ろうとしていた。アメリカの支援を受けられないことを悟った英仏は国連の停戦決議を受諾、スエズ侵攻は失敗した。
イスラエルも停戦に合意し、戦争は停止した。国連停戦監視団と入れ替わりイスラエルは撤退していったが、最後に残ったチラン海峡の入り口に当たるシナイ半島南端のシャルム・エル・シェク港から撤退したのは、翌57年3月8日であった。
1−3−3 再び戦間期へ
第2次中東戦争は終わった。エジプトは多くの兵力を失ったがスエズ運河の支配権を確立することができた。イスラエルはエジプト軍からの捕獲品(最新鋭のミグ15ジェット戦闘機やT-34/86中戦車、スターリン3型重戦車、他多くの補給物資)を得るとともに、実戦経験と、戦車の有効性を認識させることとなった。参謀総長モシェ・ダヤンなどはそれまでの態度を一変させ、熱心な戦車の支援者となった。実戦経験を加味して部隊運用も変更された。従来17両であった戦車中隊の定数を11両とするなどの効率化も図られることとなったのであった。
戦争が政治の延長であることから考えると、エジプト及びイスラエルは政治的勝利を収めたといえる。一方イギリス・フランス両国は、損害こそ大きくなかったものの、所定の目的を達することができなかった。政治的な”負け戦”であった。中東における両国の影響力は決定的に衰え、変わってアメリカ、ソ連超大国が中東問題に大きくかかわることになったのである。
参考文献『中東戦争全史』 山崎雅弘 学習研究社 2001年
『イスラエル機甲軍』 天下御免丸 同人誌 1999年